第9章 エマの願い <2>(2026/10/11)
霧が多い1月が終わりに近づく頃、この日のグランサムはあたり一面、田舎の空気感漂う白い霧に覆われていた。
しかしながらワンディの心だけは、エマと再会できたあの日を境に霧が晴れたように清々しい温もりに満たされていた。あれだけ悩んでいた、新しいお店に出す作品のデザインも100を超えるほど書き上げていた。
今日はそのデザインを持って、ロンドンの駅でエドワードと合流したあと、タイラー・エリアソンのお店へ行き、作品の打ち合わせをする予定だ。
ヘレナおばあちゃんに「行ってきます」と言って、家を出たワンディは電車へ乗る前、駅前通りにある赤い郵便ポストに4通の手紙を投函した。
宛先は北アイルランドへ行った母ソフィー・ウッド、ロンドンに住む親友フレディ・エルガー、フランスのシャエル・ド・エーの天才デザイナーと呼ばれるダニエル・ウィンストン、最後はジュエリー・デザイナーズ・コンテストで一躍注目されるデザイナーとなったアメリカのビル・クラインだ。
ロンドンへ向かう電車の中で母へ書いた手紙を思い出していた。
ー親愛なる母さんへ
お元気ですか。しばらく、母さんからの返事がないので少しだけ心配しています。おばあちゃんは新しい家族のために忙しくしているんだろうと言っています。
忙しいだけならいいのですが、風邪などひいていないでしょうか。北アイルランドはこっちより寒いと聞くので、無理をしていないならいいと思っています。
返事がなくても、こうして手紙を書くのは変かもしれませんね。でも、母さんに話したいことがあると、やっぱり手紙を書いてしまいます。
実は、今年の春から初夏にかけて、新しい宝石屋を開く話がエドワードおじさんと一緒に進んでいます。庭小屋ではじめた宝石屋がちゃんとしたお店になるなんて本当に信じられないです。
母さん、お店はどこで開くと思う?実は”恋人たちの桟橋”の前にあるバリー男爵のコテージを借りてやるんです。どんなお店になるかはこれからだけど、きっと、母さんにも喜んでもらえるようなお店にするよ。
それから、もう一つ話したいことがあります。
母さんが北アイルランドへ行く前に話をした”不思議な木のフルージュ”で出会った女の子のこと覚えている?実はあの子と再会できたんだ!2年半ぶりだったんだけどクリスマスの日の夜、突然、彼女がお店に来てくれて…もう、心臓が爆発しそうだった。
今回は彼女の名前もちゃんと聞いたよ。”エマ・ストーリー”っていうんだ。いろんな話をしてね、母さんにも会わせたいくらいにとてもいい子なんだ。
僕は母さんが新しい家族と穏やかに暮らして幸せならそれでいいと思っています。ただ、ときどきでいいので短く”元気です”だけでも返事をもらえたら安心できます。
寒い日がまだまだ続きます。どうか身体を大切にしてください。
また手紙を書きます。愛をこめて
あなたの息子、ワンディよりー
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キングズ・クロス駅に到着すると、肩を竦めながら寒そうに待っているエドワードとすぐに合流した。
タイラー・エリアソンのお店に向かう途中、工房で働くピエールとロムジーにばったりと出会った。ふたりは前が見えないほどの大きな紙袋を持っていた。話を聞くとこれから工房の大掃除が始まるようでその備品や消耗品を買いに来ていたようだ。
ワンディはエドワードにふたりのことを紹介すると、ピエールには新作の打ち合わせでタイじいのお店に向かっていることを伝えた。
「ワンディ、本当かよ!」待っていましたといわんばかりにピエールは喜んだ。「ルイ兄、楽しみにしていたからな。工房に戻ったらみんなに伝えておくよ」そう言って、ふたりとわかれた。
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「先生、申し訳ございません!」「エヴリン、これで何回目かね!…それで、どこに置いてきたと言うんだ」
ワンディたちはお店に到着したが、扉の前で立ち話をしているふたりに何か問題が起きたようだ。
「ホテルです」「じゃあ、今すぐホテルへもどりたまへ。私は先に入っておくから…ああ君、ここの場所はもう覚えたね」「はい、先生大丈夫です。すぐに取って戻ってきます」そういって、女性は走り去っていった。
残った男性がエドワードのほうを見た。「あっ、これは失礼。こちらのお店に御用ですかな」
「ええ」エドワードは軽くうなずいた。
それを聞いた男性は、扉を開け、エドワードとワンディを入れるかと思いきやズカズカと先に入っていき、「タイラーさん」と一言放った。
「あら、グレイブさん。お久しぶりです」アナがすぐに気づいた。しかし、その男性はアナを素通りして、店の奥へと向かった。
タイラーも聞き覚えのある声にすぐに反応した。「アーサーか?」
「タイラーさん、すごいの見つけたんですよ。ぜひ、見てもらいたくてきたのですが…私の大切な標本箱を助手がホテルに忘れてきたなんて、ああ、信じられない。でもねタイラーさん、今回見つけたケアンゴームの美しさは前回を越えるかもしれません。何せ…」アーサー・グレイブの話は止まりそうにない。
「やあ、アナ」「こんにちはアナさん」話し込むアーサーを見入っていたアナに少し間を開けて入ってきたエドワードとワンディは声をかけた。
「いらっしゃい、おふたりさん。う〜ん、今は少しタイミングが悪いかも…」
「お知り合いなんですか?」
「ええ、彼はアーサー・グレイブさんと言って、世界中を旅して石を集めてるわ。つまり、石コレクターね」エドワードとワンディはアーサーを見ながらうなずいた。
タイラーは石のことを熱く語っているアーサーから目をそらして、ワンディたちが来ていることを確認すると、こう言った。「…アーサー、わかった、わかった。では、その助手が標本箱を持ってきてから、また詳しい話を聞こうじゃないか。今日は先に予約をしているお客さんがもう、いらっしゃっているから、向こうの席で紅茶でも飲みながら待っててくれるかい」
アーサーは言われたことにキョトンとした顔を見せ、「そうでしたか、それは失礼」と言った。
「じゃあグレイブさん、こちらの席でお待ちになってください。すぐにお茶をご用意しますので…」アナはアーサーを誘導しながら、ワンディたちをタイラーのところへ向かわせた。
「やあ、ワンディ。…できたんじゃな」タイラーは新しい年となり、またこうやってエネルギーに満ち溢れた若い彼の仕事を一緒にやれる喜びを感じながらの一言だった。
「はいっ!」ワンディは力強くはっきりと返事をした。
「じゃあ、さっそく見せてもらうよ」タイラーは散らかっていた作業台の上を片付け、ワンディとエドワードは目の前に座り、それから用意していた新しいジュエリーのデザインをタイラーに渡した。
タイラーは1ページ、1ページじっくりと見ている。そして、その表情にはページをめくるたびに笑みが浮かんでいた。
ワンディはタイじいを見ながら、この場所で初めて会った日のことを思い出していた。とても、自分から声をかけることができないほど緊張感のある人だった。その人が自分の描いた作品を見て、やさしい顔になっている。ワンディもまた、タイじいと一緒にやれる喜びを感じていた。
タイラーは次々にページをめくっていくと、1枚だけあきらかにデザインの雰囲気が違うことに気づいた。
エマが描いた1枚だ。
ちょうどそこへ、エドワードたちへの紅茶を持ってきたアナがきた。
「アナ、どう思うかね」タイラーはアナにその紙を渡した。
アナは紅茶を置き、テーブルに置いてある新作のデザインを見ながら、その紙を受け取った。「ワンディの新作ですね。…」アナは紙に描かれたデザインの存在感に圧倒され、黙り込み、その紙に見入ったようだった。
「1枚だけ君が描いたものではないようじゃが…」タイラーが聞くと、ワンディは待っていたように嬉しい表情をしていた。「…会えたんじゃな」タイラーは直感的に聞いた。
「はい、あの子と再会することができました」
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「急げ!急げ!ピエール」ピエールからワンディのことを聞いたルイは、大掃除はドニに任せてタイラーのお店に急いで向かっていた。
「こっちは朝から買い出しで疲れてるんですけど…」両ひざに手をついて、肩で大きく息をしながらピエールは愚痴をこぼしていた。
「先に行ってるぞ〜」ルイの姿は見えず、声だけが聞こえていた。
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タイラーのお店の扉が勢いよく開いた。一番に反応したのはアーサーだった。
「よしっ、持ってきたかね!」しかし、入ってきたのはルイだった。
「あっ、…お久しぶりです、グレイブさん!」ルイは数年ぶりに会う、石のスペシャリストに気づいた。しかし、アーサーの反応は真逆だった。
「なんだ、君かね…」残念そうに言うと、すぐに背を向け、長椅子に戻り、飲みかけの紅茶を一口含んだ。
そして、少し遅れてピエールがやってきた。これもすぐにアーサーが反応したが違うとわかるとイライラしながら店の外へと出て行ってしまった。ルイとピエールが来たことで一気ににぎやかな店内となった。同時に、
「少し席を外すよ。…話を進めておいて」そういって、エドワードも店の外へと出て行った。
エドワードはアーサーのイライラの様子を察して声をかけた。
「先ほどの女性、遅いですね」返事はせず、うんうんとアーサーは頷いた。
「近くのホテルですか?わたしが探しに行ってみましょうか」アーサーは協力的なエドワードに好感を持って、ホテルの名を伝えた。
「わかりました。少し、見てきます」
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エドワードが戻ってきたのはそれから1時間後だった。その横にはしょぼくれたエヴリンが標本箱を持って立っていた。
「グレイブ先生、彼女を責めないでもらえますか?」
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…エドワードはアーサーから聞いたホテルへ着くとフロントで支配人たちとやり取りする青ざめたエヴリンを見つけた。ホテルに預けたと思っていたはずの大切な標本箱は保管庫、荷物室、フロントの記録などすべて見てもどこにもなかったからだ。
エドワードはアーサーの代わりにここへ来たことを伝えた。そして、標本箱の行方を一緒に探すべく、昨晩からの行動をひとつひとつエヴリンに聞いて行った。
「忘れ物はね、意外と身近にあったりするものだよ。最後に標本箱を見てから今まで、一番長くいた場所はどこだい?」
「それは……」エヴリンは記憶を遡った。「…宿泊していたベッドの上です。あっ」ベッドをイメージした時、何かを思い出した。
急いでフロントへいくと、ホテルマンと一緒に客室へ向かっていった。戻ってきたエヴリンの手には標本箱があり、「ありました」と一言いって、安堵の笑顔を見せていた。
タイラーのお店に一緒に向かう途中、「どこにあったんだい?」とエドワードは聞いた。
すると、最初は旅行鞄の中、でも盗まれたらと思ってクローゼットの奥、いや掃除の人が見つけるかもと思ってフロントへ、でも持っていく途中で大切なものを他人にはやっぱり預けられないと思って部屋へ戻りました。それで、最後に置いたのがマットレスとベッドフレームの間ということをエヴリンは真剣な顔でエドワードに聞かせた。
エドワードは大声で笑いかけたが、エヴリンの真面目な気持ちを汲んで頬をほぐしてごまかした。
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…「無事なんだね。私の標本箱は」待ちくたびれたアーサーは怒る気力もなく、無事に戻ってきた標本箱をうれしそうに受け取った。
エドワードはお店の扉を開け、アーサーを店内へと手招きし、エヴリンも静かに続いた。
「タイラーさん、お待たせしました!」ワンディたちの話し合いは、ほぼ、終わっていた。アーサーは長テーブルへ標本箱を置き、一つ一つ取り出しはじめた。
「お〜、これは、ケアンゴームじゃないですか」ルイはすぐに反応した。
「あの石ですよね。すごい」ピエールも興奮気味に言った。
「ほ〜、懐かしい。ケアンゴームを採ってきたんじゃな」タイラーが言った。
「ケアン…ゴーム?…あっ、もしかして魔法のリングに使われてた石じゃなかったかしら?」アナがみんなに向かって言った。
「アナ、そうだよ。タイじいとルイ兄の傑作に使われた石さ」ピエールが振り向いてアナに言った。
ケアンゴームとはスコットランドのケアンゴーム山地で採れる黄褐色〜茶褐色の宝石質クォーツのことである。昔からこの場所だけが持つ独特のスモーキークォーツはコレクターから注目されていた。良質な大型結晶を求めて、世界中から多くの買い付け人が集まっていた。
今から10年前、タイラー・エリアソンがシャエル・ド・エーで仕事をした最後の年に発表したのが魔法のコレクション。そのコレクションの中に魔法のリングがあり、タイラーはリングに嵌める石をずっと考えていた。そんな時に紹介されて出会ったのがアーサー・グレイブだった。当時のケアンゴームはとくに黄褐色の入り方が見事でタイラーが思い描いていた石そのものだった。アーサー・グレイブとはその時からの付き合いとなっていた。
「いや〜どおですか、みなさん、ここ見てください。この結晶面。柱面がこれだけ完全に残っています。終端も欠けていない。透明度も高い。しかもこの色、スモーキーというより、黄金を強く含んだ褐色、近年ではまず、見たことありません。うん、実にすばらしい。それから、この母岩も美しいでしょ…他にも、」興奮しているアーサーの話は、止まりそうにない。
「アーサー、このアゲートもいいじゃないか」テーブルの端に置いてある瑪瑙を手に取り、タイラーが言った。
「はい、たしかに今、モントローズで良質なアゲートが採れています。…でもタイラーさん、こっちのケアン…」
「これも、君が採ってきたものなんだろ?」アーサーの話しにかぶせて、タイラーが聞いた。
「…」アーサーは少し、黙り込んだ。「…ええ、確かに今回の旅で採ってきたものではありますが、それは私が見つけたものではありません。…見つけたのは彼女です」そう、言ってアーサーが指さしたのはエヴリンだった。
「いえ、とんでもありません。…先生の言われたとおりに石を探しただけですから、先生が…」
「エヴリン!…石というものは確かにわれわれが探し歩いて手にするものではある。しかし、同時に石にも人を選ぶということがある。つまり…」
「つまり、君より彼女の方が良いアゲートを見つけたということじゃな」タイラーが言うと、アーサーは咳ばらいをひとつした。「じゃあアーサー、ビジネスの話をしよう。このアゲートはとても良質で、新しいジュエリーにぜひ使いたい。桃色の入り方がきれいなこの石の感じで必要量を用意してもらえぬか?」
アーサーはエヴリンの顔を見た。エヴリンは静かに下を向いた。
「私と彼女はまだ、2週間前に出会ったばかり。今回の旅にあたり、鉄道の手配や書類作成をお願いする人物が必要のため紹介所を通じて助手として働いてもらっています。ですが、彼女は切符を無くしたり、地質図をコーヒー色に染めたり、採集者たちへの情報手数料を必要以上に支払ったりと…」
「それから、ここに来るときも大切な標本箱をホテルに忘れてきました。私は多くの助手を見てきましたがここまでひどい助手は本当に初めてです。ですが…私よりも良い石を見つけられた助手もまた初めてです。もし、タイラーさんがそのアゲートの質をご希望とされるなら、彼女に聞かなければいけません」
エドワードはエヴリンの隣で微笑み、このやりとりを見ていた。
「君の予定はどうかね?」アーサーがエヴリンに聞いた。
「…とくに次の仕事の予定は入っておりませんので先生が私を必要として下さるのなら、私はかまいません」
「じゃあ、話は決まりじゃ。アゲートはアーサーに頼んだよ。それから…」タイラーはエドワードに顔をむけた。
「コーウェルさん、今日もらったデザインは来月2月に準備をして、3月から順に作っていき、5月のはじめにはお渡しができるだろう。そこでお願いなんじゃがの、ワンディにはルイたちと一緒にジュエリー製作をやってもらおうと考えておるが、いかがかな?」
「ジュエリー製作をですか?」エドワードが言った。
「そうじゃ。工房でみんなと一緒に働くことで学ぶことも数多くあるだろうと思っておる」
「たしかにそうですね。自分たちが取り扱う商品の説明にもより深みが増していい考えだと思います。…そうするとその期間はグランサムから通うわけにはいかないでしょうから…」
「いや、泊まるとこはもう考えておる。…ルイの家に空き部屋があるから、そこで寝泊りしてもらおうと思っておる。…どうじゃワンディ、一緒に作ってみようじゃないか」タイラーはワンディに言った。
「はい、わかりました」ワンディは快く返事をした。
「よし、これも決まりじゃ」
ピューイ!ピエールが口笛を吹いた。
「新入り、よろしく頼むぜ」ピエールはワンディの肩を掴んだ。
「あっ!!!」エブリンが突然、大きい声を出した。「先生、列車の時間に遅れそうです…」
「何、ゴールデン・アローに…どれくらい、遅れてるのかね」
「30分です」
「なぜ、もっと早く言わない」アーサーは慌てて石を標本箱に入れだした。「君は駅へ向かう車を捕まえておきたまえ」
「はっ、はい」エブリンはみんなに軽く挨拶して先に出ていった。
ア−サーも準備を終えると「じゃあ、タイラーさん、お約束のアゲートはたしかに引き受けました。では、みなさん失礼を」そう言って、お店を出て行った。
その時のアーサーは、助手に振り回される自分もまんざらではないような顔をしていた。
© 2022–2026 Tadahiko Sakai. All Rights Reserved.Story and characters: Fruje
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