第8章 再会のクリスマス(2025/12/28 23:18)
「すいません。こちらの病院で入院している、オール・ベルケムさんの病室をお聞きしたいのですが?」タイラー・エリアソンのジュエリー工房で働くドニはロンドン中心部にあるモーズリー病院に来ていた。「オール・ベルケムさんですね。少しお待ちください」看護婦は台帳をペラペラとめくりはじめた。
「あなた、ベルケムさんとはどういったご関係でしょうか?」看護婦は台帳を開いたままドニに目を向けた。「仕事の関係でお付き合いさせてもらっているドニと言います。本日のこの時間にお話する約束をしているものです」「お連れの方がもうひとりいると伺っていますが?」もう一度、看護婦はドニに聞いた。
「いえ、わたし一人です」「そうですか。ベルケムさんの容態は落ち着いてはいますがあまり長く話をされるのは好ましくありません。30分ほどでそのお話はお願いできますでしょうか?」「…わかりました」「お部屋は2階の215番のお部屋になります。そちら右側奥の階段からお進みください」ドニは軽く会釈して階段へと足を進めた。
2階へ上がると左奥の部屋がその部屋であるとすぐに気づいた。角部屋であり、余裕のある扉の雰囲気からすると他の病室とは違う特別な部屋であることを感じながらノックをした。返事がないのでゆっくりと扉を開けてみる。すると、奥に見える開きっぱなしの窓から風が心地よく部屋の中に入ってきた。大きく揺れるカーテンはドニの方へとなびいて見せた。
ベルケムはベッドの上で小さな息をしながら目を閉じて寝ていた。お見舞いとして持ってきた果物をテーブルに置いて、ドニは使い古したイスにゆっくりと腰かけた。ギィィィーーっとイスは甲高い軋む音がなった。「…おっ、ドニ、来ておったか」ベルケムはその音で目を覚まし声をかけた。「…お久しぶりです。ベルケムさん」ドニはすぐさま立ち上がり姿勢をただした。
ベルケムは笑みを浮かべた。「ドニ、もうそういった関係はずいぶん昔の話ではないか。いいから座ってくれ」硬い表情をくずさないままドニはもう一度イスに腰かけた、ギィィィーー。「この前、お前からの電話をもらったときはとてもうれしかったぞ。ただ、わたしはとても体調が悪いときだったからその思いは伝わってはいないとおもうがな。…それでどうだ、タイラーの所ではうまくやっているんだろ?」
「はい」ドニは静かに話した。「一度は裏切ったこのわたしを、ゴルディールから戻った26歳から今日まで何もなかったように受け入れてくださり、今では石の調達から研磨のすべてをまかせていただいています」「そうか」ベルケムは深く頷いた。「それならよかった。まあ、タイラーを裏切ったのはこの私でお前ではない。私がお前を強引にゴルディールのもとへと連れて行ったのだから、お前には本当に悪いことをしたと思っている。すまなかったな」
「ただ、…お前にもわかってほしいのはタイラーもこの私も自分が思う道を選び、進んだまでのこと。あの時、私がゴルディールの元へ行けば、王室の専属ジュエラーを続けることは困難ということはわかっておった。それに、タイラーも私との考えには大きな隔たりがあるということもわかっていたはずだ。だから私はいついかなる時も変化は起きるものであるとそう考え…」
ガチャ。「は〜い、失礼しまーす。ベルケムさん、お元気ですかー?」病室の扉がいきおいよく開いて、陽気な白髪の男が入ってきた。「フレデリック。もう少し、静かに入ってこれないのか?」ベルケムが頭を抑えながらその男に言った。「何を言ってるんですか、ベルケムさん?もう、こちらは出版の準備や新しいテーマの研究で大忙しなんです。これからすぐにでもインドに発たなくてはいけないところを理由も言わずにこの時間にどうしてもここに来いというあなたのほうこそ私に敬意を払うべきではありませんか?」
「まあよい。ドニ、こちらは植物・生物学者のフレデリック・ヘンズロー教授だ。君から電話をもらった不思議な木のフルージュについて研究しており、最もよく知る人物である…」「そうですとも」フレデリック教授は話を割って話し出した。「不思議な木のフルージュについて私は30年近く調べてきました。なぜ、あの木がいろんな果実を実らせるのか?なぜ、果実を食べた人は願いが叶ったというのか?本当なのか?うそなのか?」
「私はあの木の果実を食べたという人にこれまで100人と会って話ができました。そしてついにそれらをまとめた著書『不思議な木のフルージュの真理』を出版することが決まったのです」フレデリック教授はくるっと回って決めポーズをして見せた。「フレデリック、その話を聞いた100人の中にイチゴを食べたという人物はいたのか?」ベルケムは決めポーズをしているフレデリック教授へ聞いた。
フレデリック教授は顎に手を置き少し考えて言った。「イチゴを実らせたという記録は不思議な木のフルージュの存在を確認してから一度だけ、ある町の書物の中から100年近く前、木の下に複数のイチゴのヘタが落ちていたという事が記述されてありました。しかし、これはイチゴを食べた人物などがわかっていないため、本当にイチゴを実らせたかどうかも定かではありません。……まあ、イチゴについてのお話はこれぐらいではないでしょうか?」
「じゃあ、今日君をここに呼んだ理由はもうわかっただろ?」ベルケムから言われたフレデリック教授はハッと気づいたように目を見開き、頬は紅潮し、うん、うんとゆっくりと何度も頷きながらドニに近づいた。「はじめまして、ドニ。…そうなのかい?そうなんだ」フレデリック教授は興奮気味にドニの手を両手で強く握りしめた。「え〜っと、フレデリック教授、わたしではありませんよ。私が知っている人物がということです…」
場所が変わってグランサム駅に到着した電車には…「ルイ兄さん、もういかげん起きてよ。着いたわよ」口を大きく開けて寝ているルイをアナが起こした。「そうか、着いたか?」二人は完成した追加の商品をワンディへ届けにグランサムへと来ていた。大きく背伸びをしながら駅を出てきたルイ。「ここからすぐなのか?」ずいぶん先をもくもくと歩くアナへ聞こえるように言った。
アナはチラっとうしろを向くが、ツンとした顔をして返事をせずに歩いている。「何だよアイツ、機嫌悪そうだな」しばらく歩いているとルイは宝石屋を見つけた。気になって立ちどまりショーウィンドウを眺めた。「なんか、パっとしねえもんばっかりだな」「いらっしゃいまぁ〜せ」店主が声をかけてきた。「クリスマスに向けての彼女へのプレゼント探しでいらっしゃいまぁ〜すか?」
ルイはその声をまったく聞かず、店主を手で押しのけ店内へと入っていった。「ふんっ、今人気のデザインはこちらのネックレスになりまぁ〜す」店主も負けじとルイの横へ。目の前に飾られいるネックレスをおすすめした。「はあ?、人気のデザイン?」ルイはその商品をじーっと見ながら聞いた。「そおですとも。女性にとぉ〜っても評判のいいミレニティアの最新作です。そしてこちらが最後の1本になりますのでお客様は実にラッキーでございまぁ〜す」
「ほ〜そうかいそうかい。人気の最新作で残り1本だからオレはツイていると」ルイは店主を睨んだ。「はぁ〜い」店主はつくり笑顔を見せつけた。「お前、オレをなめてるだろ。最新作?このモデルもう5年以上の前のやつだぞ。人気のデザイン?これデザインしたやつはもうとっくにミレニティアにはいないしな。それでオレはこの売れ残りで出回っているものを手に入れられるからラッキーなのか?」
「ふんっ」店主は眉間にシワを寄せた。「人のお店に冷やかしに来た同業者の方でしたら速やかにお帰りいただいてけぇっ〜こうです。私が間違っていました。あなたみたいな人が誰かに贈り物をするはずなんてあぁ〜りませんもんね」店主は負けじと嫌味をひとつ言ってからうしろを向いた。「なんだと、おい!」ルイは店主の首元のシャツをつかんだ。「ちょっと、ちょっと、何やってんのよ!」あわてて店に入ってきたアナが店主に殴りかかろうとしているルイの腕を両手で掴んで止めた。
「ごめんなさい。…彼、悪気はないので。…本当に」アナは店主に詫びながら、背中でルイをお店の外へとグイグイ押し出していた。アナは外に置いてあった荷物の半分をルイに渡してワンディのお店に向かって歩き始めた。「ルイ兄さん。今日、喧嘩をしにここへきたんじゃないですからね」「はいはい、わかってる。アイツ、嘘ばっかりペラペラ言うもんだから、つい頭にきて……」ルイはブツブツと文句を垂れていた。
「あ〜〜っ、このあいだのお姉ちゃんだ」ワンディのお店の庭が見え始めたころ、2人の女の子がアナに近寄ってきた。「え〜っと、たしかリリーちゃんとマリーちゃんだったかな」アナは苦笑いを浮かべながら返事をした。リリーとマリーは横に立っているルイをひとめ見るなりアナの足元に隠れた。「おっ、今オレ見て隠れなかったか?」ルイは隠れる女の子たちを覗き込んだ。
「やだ〜っ!キャ〜っ!」リリーとマリーは悲鳴をあげながらお母さんのもとへと走って逃げていった。「あら、リリー、マリーのお知り合い?」女の子たちの母、マルティネス夫人はこっちを見ている。アナは女の子たちに逃げられたルイの表情がおかしくて大笑いしている。「アナ、こっち見られてるぞ」ルイがそう言っても笑いは収まることなくアナは涙を拭っていた。
「先、行ってるわ」ルイはアナを横目に歩き出していた。リリーとマリーはルイが通りすぎるのをお母さんの足元からチラチラ見ている。アナもルイのあとを追って歩き出すもリリーとマリーの怯える様子がなんともおかしくニヤついていた。ただ一言だけ挨拶にとマルティネス夫人のもとへ向かった。「こんにちはアナスタシアと申します。お隣のワンディのお店に用があってきたんです・・・」まずそう言ってから「リリー、マリー、あの人そんなに怖い?・・・ふふっ、大丈夫よ。見た目ほど悪い人じゃないわ」
「アナスタシアはこの子たちとお知り合いなんですね、はじめまして。でも、ワンディのお店は今はやっていないそうですよ。すべて売り切れになったとかで・・・」マルティネス夫人が軽く微笑みながら返事をした。「ええ、そうですね。今日はその売り切れになった商品の用意ができたのでこうやって私たち届けにきたんです」アナは両手に持つ袋を持ち上げて見せた。「まあ、そうなんですね!実はわたしも興味があったもんですから・・・それじゃあ、次はいつからお店は開けるのかしら?」
「たしか、11月15日からと聞いていますが・・・」「そう、もうすぐじゃない。それだったら、この子達と一緒に一度、見に行ってみようかしら・・・ねえ、リリー、マリー」「お姉ちゃんまた、遊んでくれる?」リリーが上目づかいでアナに聞いた。「そうね。次、来たときにね・・・それじゃ、行きますね。バイバイ」マルティネス夫人とリリー、マリーに別れをつげて、小走りで先を歩くルイへと向かった。
「ルイ兄さん!止まって!止まって!」アナはワンディのお店を遠く通りすぎているルイに大声で声をかけた。「ちっ」ルイは小さな舌打ちをしてからゆっくりと戻ってきた。「ここか?」ふたりは庭小屋の宝石屋を前に眺めていた。「あそこに見える庭小屋で販売しているんです・・・ルイ兄さんにもホント、見せてあげたかった。さっきの曲がり角からここまでずら〜っと馬車の行列ができていたんですから」
ルイはうんうんと頷いてから庭小屋に近づき扉を開けようとするが鍵は閉まっていた。「あらまあ、いらっしゃい」家の中からヘレナおばあちゃんが出てきて声をかけてきた。アナはかしこまって一礼した。「たしか、アナさんだったね。ワンディに会いに来てくれたんでしょ?今、少し出かけているけどすぐに戻ってくるから、さあ、どうぞ中でお待ちになってくださいな」
ルイとアナは言われるがまま家の中へおじゃまをして食卓に腰をかけた。「そちらの方ははじめてね。アナさんの彼氏かしら?」ヘレナはふたりに紅茶を差し出しながらアナに聞いた。「ぷっ・・・いえ、そうではありませんけど・・・」アナは口に含んだ紅茶を噴き出しそうになった。それから一度ルイの顔を見て、少し照れ笑いをしながら返事をした。「あらそう?ずいぶんとお似合いだと思ったんだけど・・・」ヘレナは台所にお菓子を取りにいった。
「ルイ兄さん、私たち恋人たちに見えるんですって」アナはヘレナから言われたことがとても嬉しかった。「そっか…」ルイは上の空で聞きながら窓から見える庭小屋をぼ〜っと見つめていた。「あんな小さな庭小屋で本当にジュエリーが売れるのか?…オレたちは立派なお店で商品をきれいに飾って売るのが当然だと思っていたが…何か考えさせるよな」
「さあ、どうぞよかったら、こちらも一緒に食べてくださいな」ヘレナは手作りのキャロットケーキをテーブルに並べた。「ロンドンのお店のほうは忙しいんでしょ?クリスマスに向けてこの町の宝石屋でさえ賑わってるくらいだからね・・・」ルイは鼻息ひとつ鳴らしてケーキを一口食べた。「ええそうですね。私たちのお店は修理がほとんどですけどやっぱりこの時期になると忙しくなります・・・」
「・・・それでヘレナおばあさん、今日はワンディから依頼されていたものができたので私たちそれを届けにきたんです」「あらそう、うれしいね。・・・前みたいにお客さんがたくさん来てくれたらいいんだけど。・・・おや、ワンディが帰ってきたようだよ」ヘレナはそう言ってから玄関へと向かった。「ワンディ!お客さんだよ!」ヘレナが声をかけるとワンディと看板屋のトニーが一緒に家の中へ入ってきた。
「ああ、アナさんにルイさん。来ていただいたんですね。ありがとうございます」ワンディはふたりに声をかけた。「やあ、ヘレナおばあちゃん」看板屋のトニーはヘレナに挨拶した。「おやおや、トニーも一緒かい?」「おばあちゃん、この間、話をしていたお庭のテーブルのことでトニーおじさんに相談にのってもらったんだよ・・・えっと、トニーおじさん、こちらはロンドンのお店で僕の宝石を作っていただいているアナさんとルイさんです」
「はじめまして看板屋のトニーだ」トニーは帽子を取って挨拶した。「ロンドンで宝石作っているってそりゃカッコいい話だ。・・・まあ、俺にもそういった高価なもんを渡せる人がいたらあんたらにお世話になるかもしれないが今のところは用がなさそうだ。へんっ・・・ただ、今はこいつがはじめた宝石屋をいろいろと手伝ってるから俺も仲間みたいなもんだろ?そんなわけでよろしくな」トニーはワンディの肩をぐっと引き寄せた。
「とんでもない。こちらこそワンディにはお世話になってるっていうか・・・ねえ」アナはイスから立ち上がり、どう挨拶していいかわからなくルイを見た。「こちらこそ、よろしくお願いします!」横を向いていたルイが勢いよく席を立つとトニーに向かって手を差し伸べた。その瞬間、トニーとルイの目と目が合って、お互い同時に小さな声を出した。「ゥッ」
2,3秒くらいの間があり、トニーは慌てて握手した。「いや、すまない・・・よろしく」ふたりの握手は互いに何か別の事を考えながらの気が抜けたものだった。「何だね、ふたりとも固まってしまったのかい?トニー」ヘレナはふたりが様子がおかしく見えて、トニーの背中をポンと叩いた。「ルイ兄さんもですよ」アナはルイに声をかけた。
「あっいや、何でもないんだ・・・」トニーは握手から放した手で頭をかいた。「・・・」ルイは何も言わずに放した手で左頬をなぞった。「ほらワンディ、遠いところからわざわざ来てくださっているんだから時間がもったいないよ。お仕事のお話をしないと・・・」「そうですね。お待たせして申し訳ありません」ワンディはそう言いながらイスに座った。「なら、俺は戻るわ。ワンディ、ちゃんと間に合うように準備するから」トニーはそう言いながら家から出て行った。
ワンディとヘレナはテーブルいっぱいに広げられた新しい商品の数々を見て興奮していた。その様子を見たルイは仕上げ方を変えたことで前回と比べても輝きが一段と良くなったことを自慢気に話していたり、アナはジュエリーデザイナーズコンテストで表彰されたことで直接のオファーが来ていることを嬉し気に語っていた。その後はヘレナも思い出したように庭小屋の宝石屋に行列ができた日の出来事を長々とルイとアナに聞かせたりもした。
こうして、この田舎町にポツンと存在する小さな宝石屋”フルージュ”はお店を再開するために、着々と準備が進められていた。そしてまた、庭小屋の宝石屋に新しい展開が待ち受けていることはワンディはもちろん、ここにいる誰もが知る由もなかった。
「ん〜〜〜っ、なるほどなるほど。そのグランサムで宝石屋を営んでいるワンディという少年が不思議な木のフルージュで大きなイチゴが実り、それを食べたとそういうことですか?」場所はふただびロンドン・モーズリー病院にもどり、フレデリック・ヘンズロー教授はドニにいろいろと聞きまくっていた。「ええ、そうです。たしかにそう話をしていました」ドニは威圧的な雰囲気に少々怖気づいた。
「ですが……それ、本当でしょうか?そういったウソの話を作り上げて、まわりの人に興味を持ってもらおうする輩は多いものです。実際私も数多くそういった人物に出会ってきたのでよくわかります。ですので果実を見つけた日、そのときの状況などをもっと詳しく聞けばその人がウソをついているかどうかは1発でわかります」フレデリック教授は人差し指で鼻下をパチンと鳴らした。
「ほう、嘘をついているのがわかるというのか?」ベルケムはベッドからゆっくり体を起こしながら聞いた。「ええ…わかります。本当に果実を食べたという人にはいくつかの共通点があることがわかっています。…これは本を買っていただきたいので多くはいいませんが共通点のひとつは”月”が関係しているという事実です。月の状態によって実る果実は違いましたが一番に影響があるのが”満月”の時です」
「ドニ、その子は月のことは言っていなかったのか?」ベルケムがドニに聞いた。「いえ、それは聞いていないですね」ドニは少し残念そうに答えた。「…でも、逆に言ったらフレデリック教授は不思議な木のフルージュで果実の実らせ方を実はすでに知っているということでしょうか?」「ええ、もちろん!…あああっ!!!」フレデリック教授は自信満々に返事したあと、言ってはいけなかったと後悔するかのように両手で口を覆った。
「すいません。今のは聞かなかったことでお願いします。これはインドから帰ってきたらゴルディールさんに一番にご報告するとお伝えしてありますので…ついつい私も気分が良くなって必要以上に口が過ぎました。ですが同時に素晴らしいアイデアも生まれました。話を戻しますがワンディという少年が大きなイチゴを食べたという話がもし本当だとしたら、これはすでに2冊目の出版が決まったようなものです。一度、会っておく価値は十分にあるというもんですね……」
エドワードにとっては、想像を超えた10分間だった。どんよりと曇った肌寒い11月のたそがれ時、約束どおりにグランサムのバリー男爵邸を訪ねた。彼は使用人に案内されると華やかなグレートホールを通り過ぎ書斎へと案内された。そこでエドワードはバリー男爵と握手を交わしたあと、あらためて今回伺ったある相談を聞かされた。
その相談とは”数年のあいだ、この地を離れアメリカに移住することになったのでその間、この屋敷を含む所有するすべての物件を管理してほしいという依頼”であった。もちろん、この話は事前に聞いていたので承知はしていた。だが、今日ここへ来たのはひとつの提案をするためでもあった。それはバリー男爵が所有しているあるコテージをその期間、使用の許可をお願いすることだ。
───グランサムには恋人たちが月明かりがきれいなときに集まる人気のスポットがあった。その場所は『恋人たちの桟橋』と呼ばれており、ウィザム川の流れがゆるやかに広がる淵だまりに架かっている小さな桟橋のことだ。日中は小さなボートが貸し出され、広がる川面をゆったりと漕いで楽しむ場所だが夜になると月明かりがウィザム川にキラキラと反射して神秘的な表情を見せていた。恋人たちはその雰囲気に身を寄せて愛を語る場所として有名な桟橋である。
エドワードは以前からこの人気の桟橋のすぐ目の前にバリー男爵が所有するコテージがあることを知っていた。そして、ワンディがはじめた庭小屋の宝石屋フルージュに人気が出始めた頃からずっと考えていた。(この小さなお店は次の段階に移る必要がある……どこへ?……人がもっと集まる場所、ロンドン、いや違う。……恋人たちだ。恋人たちが足を運んでくれるようなそんな場所がいい。……そう、あのグランサムにある『恋人たちの桟橋』の雰囲気のようなところがいい)
そんな思いが天に通じたようにバリー男爵から突然の電話をもらい。イメージしたその場所の交渉をまさに今しているのである。エドワードがその話を始めるとバリー男爵は「すばらしい!」と一言いった。そして、話はすでに決まっていたかのようにまとまっていった。エドワードはあのコテージを宝石屋として使用にするにあたって事細かくまとめ上げていた。最後、契約書にバリー男爵からサインをもらうとき、あまりに話がスムーズにいくことから逆に怖さを感じておもわず聞いてしまった。
「バリーさん、こんな事をいうのも変だと思いますが私の話を疑ったりはしないのでしょうか?」バリー男爵は一度持ったペンを置いてからエドワードを見た。「実は君からの提案はすでに承知していたことなんだ」「えっ、どういうことでしょうか?」「移住を決めたのは私がいつも見ていただいている占い師の助言なんだ。その時に彼女から、あのコテージはこの街の人たちにとって特別な場所となる。だから、必要とする者に耳を傾けるようにと言われていたんだよ」
「それを聞いた時はよく意味がわからなかった。でも、こうやって今、必要とする者。……君があらわれたというわけさ。気づいているかい?平然を装ってはいるが君の提案を聞いてから私の心臓はアイリッシュダンスのステップよりも大忙しなんだよ」バリー男爵が大声で笑いだすとエドワードも一緒になって笑った。
屋敷を出るときにもう一度ふたりは握手をした。「じゃあ、エドワード君、あとは頼んだよ。……それから、宝石屋の成功を祈っている」「かしこまりました。バリー男爵もお元気で」エドワードは帽子をかぶりながら用意された送迎車に乗り込んだ。そして、ここへ来た時から夜の気配へと変わりつつあるバリー男爵邸をあとにした。邸宅の前にある木の枝には1羽のロビン(鳥)がとまってその様子を見ていた。ロビンはスゥーっと下降しながら送迎者を見送るバリー男爵の肩にとまった。そして、ピッピッピッーと耳元で鳴いて、今度は空高く飛んで行った。
「なんてすてきな日なんだ!」ワンディは2階の出窓を開けて大きく息を吸い込んだ。庭小屋の宝石屋 フルージュが再開する日。1932年11月15日のイギリス・グランサムはとても気持ちの良い天気に包まれていた。「おばあちゃん、おはよう!」勢いよく階段を降りながら、ヘレナに声をかけた。「ワンディおはよう。いよいよだね」ヘレナは言葉少なく忙しくしていた。ワンディは台所に見える、たくさんの果物が気になった。”あんなにたくさんの果物どうするのだろう?”
しかし、ワンディはすぐにやらなくてはいけない準備があった。看板屋のトニーに依頼していたテーブルが当日ギリギリの仕上げになっていたからだ。もしかしたら、お客さんが早く来てしまったらどうしよう?ヘレナが用意してくれていた朝食を食べながら自分がやらなくていけないことを何度も頭の中で確認していた。「エドワードも早めにくるからと言っていたよ」たった今、焼きあがった美味しそうなパンをテーブルに置きながらヘレナが言った。
ワンディは急いで朝食をすませ、まず庭小屋の宝石屋の準備に取り掛かった。庭小屋の扉を開くと前にはなかった壁紙が貼ってあり雰囲気のよさが伺えた。壁紙には大小3つほどの額縁が飾ってあり、ワンディはその場所にネックレスを飾ってみせた。小さなテーブルの両脇には花瓶いっぱいに飾ったシュウメイギクとアスターがお客様をお出迎えすることになっている。
そして、ワンディが開けっ放しの扉に看板をかけようとする頃、看板屋のトニーが荷馬車を引いてエドワードと一緒にやってきた。「お〜い、ワンディ。遅くなってすまん」トニーは急いで荷台に積んであるテーブルを降ろし始めた。「よし、今日はわたしも手伝わせてもらうよ。さあ、トニーこい!」エドワードはシャツの袖をまくりながらトニーに言った。「エド!本当にやれるのか?……アハハッ!」トニーは冗談交じりに若い日に一緒に遊んだ友へテーブルを渡しながらに言った。
「ワンディ、これはどこへ運べばいいんだい?」「こっちです。おじさん」ワンディは駆け足でエドワードが持つテーブルの片方を掴んだ。「テーブルはいくつもあるようだが……」「あばあちゃんのアイデアですよ」テーブルは庭小屋が見える少し離れた場所に置いた。「前の行列のようにお客様を退屈させない工夫です。庭小屋で宝石を見れるのは1組だけです。だから、次に待つお客様にはこれらのテーブルでお茶でも飲んでゆっくりしていただこうと思って……」
「でも、エドワードおじさん。前みたいにお客様は来てくれますかね?」ワンディは少し不安な表情でエドワードに聞いた。「大丈夫だよ、ワンディ。それは私の仕事だ。十分に手を打ってある」エドワードが言ったようにワンディの不安はすぐに消えた。最初のお客様がトニーに声をかけているのを目にしたからだ。家からヘレナがクリームを泡立てながら飛び出して、目を細目にして言った。「お客様だね。……エドワード、ワンディ。さあ、はじまりだよ」
ワンディは庭小屋のそばでお客様について応対をし、エドワードは次に待つお客様たちをテーブルへ誘導し、飲み物を伺っている。ヘレナはエドワードから聞いた飲み物を用意して特別な1品と一緒にまたエドワードへと渡した。「母さん、これは?」エドワードはヘレナに聞いた。ヘレナはにんまりと微笑んでから言った。「これはサンドイッチだよ。中はフルーツと生クリームさ」
「サンドイッチ?」エドワードは驚いた。今まで見たサイドイッチとはまったく違っていて手のひらにちょこんと乗る程の大きさで一口で食べることができるようだ。それに中身がフルーツだなんて聞いたことがない。エドワードはお客様に出すのをためらった。いやでも後ろに立っているヘレナの顔を見たら”いいから出しなさい”という表情をしている。「おまたせしました。紅茶とこちらは一口で食べられるサンドイッチになります」……しぶしぶ出してみた。
「おもしろい。飲み物だけじゃなくサンドイッチまでこのお店は出してくれるのかい」お客様の男性が言った。「中は何を挟んでるのかしら?」隣に座る女性が聞いてきた。その時、エドワードはピンときた。「お客様、こちら宝石屋の”フルージュ”はフルーツをモチーフにした宝石を手がけております。ですのでこのサンドイッチには季節のフルーツと生クリーム合わせて挟んであり、お店からの特別な1品となります」
ヘレナは気になってエドワードとお客様のやりとりを遠目に見ている。「まあ、フルーツのサンドイッチ!食べたことがないわ」その女性は皿を持ってサンドイッチを眺めた後、その美味しそうな誘惑から、好奇心で一口食べてみた。「あぁ、信じられない!美味しいわ!とっても」エドワードはその反応をヘレナに伝えようと振り向くとヘレナは小さくガッツポーズをしていた。
気づけば看板屋のトニーもエドワードと一緒になってあとに続くお客様の誘導などを手伝っていた。「エド、すごいな。次から次にやってくる。どうなってるんだ」「ほら、ぼーっとする暇があるならこれを運んでおくれ」ヘレナは横からお尻でトニーをつついた。エドワードは今日の日のために新聞に小さな広告を出していたのはもちろん、連絡先を交換していたお客様には事前に案内の電話を入れていた。
その甲斐あって、うれしいことにお客様の行列は途切れることなく続いていた。しかし、その状況でヘレナは少し困っていた。お昼を過ぎた頃からヘレナがソワソワしているのを見て、エドワードが声をかけた。「母さん、大丈夫?何かあった?」「あぁエドワード、こんなにお客様が来るとは思っていなかったから果物が足りなくなるかもと思ってね……」「それなら、トニーに買いにいってもらえばいい」
「そうだね……あぁでもそれなら、ワンディに行かせられないかね。実はロバーツさんのところで果物を用意したんだけどワンディのお店で使うんならと言って、たくさんいただいているんだよ。だから、お礼もかねて行ってほしいのさ」ヘレナに言われたエドワードはうなずき、この場をトニーにまかせてからワンディと入れ替わった。”じゃあ、エドワードおじさん。少しの間、お願いします”そう言ってワンディはヘレナに大きく手を振りながらロバーツのお店へ走っていった。
ロバーツのお店はグランサムの駅に向かう道の途中にある食料雑貨店であった。ワンディがお店に着く前から大きな声が店先から聞こえている。”ありがとう!ありがとう!またたのむよ!””ほら奥さん、今日はリンゴがとくに美味しいよ”そんな活気のあるお店にワンディは息を切らしながら入ってきた。「こんにちはロバーツさん!」「お〜っ、これはこれは噂のお店の店主さんじゃないか!……お店がすごい賑わってるって、来るお客さんみんな言ってるよ」
「えっそうなんですか」ワンディは少し驚いた。「ロバーツさん、おばあちゃんから聞きました。果物をたくさんいただいたって」ロバーツはニコっと笑った。「もちろんだ、ワンディ。新しいことに挑戦している若者にはわたしは応援したいからね」ワンディはロバーツの話を聞きながら店の奥で椅子に座って本を読んでいる小さな女の子に目をやった。「ありがとうございます、ロバーツさん。それでこの紙に書いてある果物を買いたいんですが…」
ワンディはヘレナからもらったメモ紙をロバーツへ渡した。「ほう、けっこうな量だね。…マーガレット、手伝えるかい」ロバーツはメモ紙をひと目見てから本を読んでいる女の子に声をかけた。その女の子は本をパタンと閉じて、イスからぴょんと飛び降りた。「はい、お父様」「マーガレット、この紙に書いてある果物を用意してくれるかい…じゃあワンディ、この子が準備するから少しの間待ってくれるかい」ロバーツは他のお客さんの所へ行ってしまった。
ワンディが待っている間、女の子のマーガレットは鼻歌を歌いながら、店中を駆け回り果物を運んでいた。すべての果物を運び終えるとマーガレットはロバーツに声をかけた。ロバーツは今一度、メモ紙を見ながら果物を指で数えた。「完璧だ、マーガレット。…ワンディ、待たせたね」そう言って、たくさんの果物が入った袋をワンディへ渡した。「しっかりした娘さんですね」受け取りながらワンディはマーガレットの手際の良さを見て感心した。
「そうかね、ほめてくれてありがとうワンディ」ロバーツはコクンと頷き、マーガレットを見た。「いいかい、マーガレットよく聞くんだ。彼はまだ若いが自分でお店を持っているんだよ。誰かがやっているからという理由ではなく彼自身がこんなお店をやりたいと考えてはじめたんだ…なあ、そうだろワンディ」「えっ…そっ、そうですね」そういうしかないと思った。「それじゃ、行きますねロバーツさん。ありがとうございます…それからマーガレットもありがとう」「おおそうかい、ありがとなワンディ」ロバーツは腰に手お当て元気に返事をした。マーガレットはニコっと笑って「またねワンディ…」とつぶやいた。
たくさんの果物を担いでワンディはゆっくりとお店に戻ってきた。するとテーブルの1席に見慣れた人たちが座っていることに気づいた。「ワンディ〜〜!!」お隣のマルティネス夫人に双子のリリーとマリーが両手を振ってワンディを呼んでいた。「あぁ、来てくださってたんですね」ワンディは笑顔で応えた。「せっかくだから見るだけでもいいかしらと思って来てみたら…ヘレナおばあさんがここで座って待ってなさいって言われてね」マルティネス夫人は少しはずかしそうに言った。
「そうですか、今、準備しますのでもう少し待っててくださいね」そういってワンディは買ってきた果物をヘレナに渡してから、庭小屋の前で接客をしているエドワードの所に向かった。「戻りました。エドワードおじさん」「ご苦労だったね。今、少し落ち着いているから、お隣のご婦人とお嬢様たちに見ていただいたらどうだい」「はい!ありがとうございます」エドワードがやさしく応えるとワンディは大きな声で言った。
エドワードがマルティネス夫人にご案内ができることを伝えにいくとリリーとマリーは目を大きくしてお互いを見合って微笑んだ。それを合図によ〜いどんと急いでイスから降りると、ワンディのもとへ元気に駆け出して行った。「あっ、待ちなさい!」マルティネス夫人があわてて席を立つ頃にはほぼ同時にふたりはワンディの足に抱き着いていた。マルティネス夫人とエドワードは顔を見合って苦笑いをした。
「それじゃ、ミセスマルティネス中へどうぞ。リリーとマリーも一緒にね」ワンディに導かれマルティネス夫人とリリーとマリーは庭小屋へ入った。「わぁ〜!いいにおいがするよママ」マリーが言った。「ホント、良い香り。前に来た時とは違った雰囲気で可愛いわ」夫人はしばらく見てから、ひとつのネックレスを手に取った。”イチゴのヘタを被った1粒ネックレス”だ。「ママはこれがいいかなと思うんだけどどう?」夫人はリリーとマリーに聞いてみた。
「ママ、可愛い。リリーも一緒のがほしい!」リリーが言うと「マリーも!」マリーが言った。「いやでも、これはまだあなたたちには早いのよ…」リリーとマリーはもちろん言うことは聞かず駄々をこね出し、最後はふたり揃って泣き出した。その状況を見てワンディは夫人に”少し待ってください”と言って家からあるものを持ってきた。「じゃあ、ふたりには特別にこれをあげるよ」ワンディはまずリリーの腕につけてからマリーの腕にもつけた。
「ワンディこれは?」夫人がワンディに聞いた。「これは新しい試作品なんですが木いちごのブレスレットになります。ふたりが気に入ってくれたらうれしいですけど…」ワンディはリリーとマリーが笑顔を取り戻したのを見て安堵の表情を見せた。「可愛い…」リリーは太陽の光で木イチゴの飾りがきらきらしているのが気に入ったようだ。マリーはお母さんに見せびらかすほどに嬉しい顔をしている。
マルティネス夫人も子供たちの喜びようにつられてやさしい顔でワンディを見た。「ありがとうワンディ。何と言ったらいいか…こんな気持ちははじめてよ」そして、帰り際のマルティネス夫人の手にはお気に入りのネックレスを入れた紙袋を持っていた。「本当に素敵なお店だわ、ワンディ。応援してるわね…じゃあ、あなたたちからもお礼をいいなさい」「ワンディ〜、ありがとう〜。がんばってね〜」
庭小屋の宝石屋 フルージュは再開初日から順調に行き、1週間ですべての商品を売り切ることができた。その日の夕方にはヘレナがお祝いのケーキを焼き上げていたのでエドワード、看板屋のトニー、ワンディの4人で庭のテーブルに座って小さな祝賀会を開いた。「うわ〜!美味しそう!あばあちゃん、これ俺も食べていいのか?」トニーはヘレナに聞いた。「ああ、もちろんさ。あんたも本当にがんばってくれたからね。ありがとよ」ヘレナが言うと、「トニーおじさん、忙しいのに手伝っていただいて感謝しています」ワンディが続き、「今回はトニーがいなかったらうまくいかなかったもしれないな」最後はエドワードが言った。
「そうか〜!それなら今日はたっぷりご馳走になるぜ」トニーは上機嫌だ。「俺もこんな経験ははじめてだったがこんなに楽しいなら、毎日でもいいくらいだぜ。…来てくれるお客さん、みんなうれしそうな顔で帰っていくから、こっちまでうれしくなっちまう」トニーの言葉にみんなうんうんと何度も頷いた。「でもエド、なくなった商品はまた追加で頼むのかい?」トニーはエドワードに聞いた。
「いや、そのことで実はワンディに相談があるんだ」エドワードはワンディの顔を見た。「これからの宝石屋フルージュをどうしてくのかということ。これはみんなにも聞いてほしいんだ…今の庭小屋での販売はいろいろと問題があるんだ。…狭さゆえの1組1組の案内になったり、今回はたまたま雨が降らなくてよかったが雨の日の案内はどうしても無理があるだろう。それに、1番の問題はお店としての信用だと思うんだ」
「信用ですか?」ワンディが聞いた。「そうだ、信用だ。私も接客をしているときに実際に”何でこんな場所でやっているのか?”と言われ、そのまま帰られるお客様が数人いたんだ。お客様の立場で考えたらその気持ちはわかるだろう。庭小屋での販売ではどんなにいい商品であったとしてもその信用を得るのはとても難しいことなんだ…」
「…それで、私からの提案なんだが、ワンディ、ちゃんとしたお店を持って、宝石屋フルージュをやってみてはどうだろう?」エドワードからの問いにワンディは鼓動の高鳴りを感じた。「ちゃんとしたお店…」少しの沈黙を挟んでトニーが思いついたように口を出した。「おいおいエド!ロンドンにお店を出そうなんて言い出すんじゃないだろうな!」エドワードは小さく首を振った。「いや、それは私も考えたが…」「もったいぶるじゃないかエドワード…」ヘレナが話を遮った。「…あんたのことだからもう決めているんじゃないのかい」
エドワードは1回だけ頷いた。「みんな、『恋人たちの桟橋』はもちろん知っているだろ?」「ああもちろん知ってるよ。若い時の私と夫との思い出の場所だからね」ヘレナは昔を思い出すように言った。「恋人たちにとっての特別な場所なんだよね」ワンディはヘレナの肩に手をあてた。「トニーは?」エドワードはだんまりのトニーに聞いた。「俺はあそこはあんまり好きじゃない。あの場所、通るたびにそいつら見ては嫌気がさすからな」
「トニー…」ヘレナが言った。「大丈夫。気が短くて、ちょいちょい口は悪いところはあるけれどあんたの仕事を一所懸命に頑張っている姿はソフィーが見ていて、ずっと褒めていたよ。だから、きっとあんたを気いってくれるいい人はそのうち現れるはずさ」「えっ!そんなことソフィーが言っていたのか!」トニーは前のめりで嬉しそうな顔を見せた。
「それで…あの桟橋の前にバリー男爵が所有しているコテージがあるんだがバリー家がアメリカに数年移住する間、そのコテージを借りることができたんだ」エドワードは話を続けた。「もちろん、宝石屋フルージュを開く目的で借りることを了承してもらったんだ」「あぁ、それは本当なのかいエドワード!あのコテージはとても素敵なところだよ」ヘレナは興奮気味に続けてこう言った。「ワンディ、あの場所なら今よりもっとお客さんも喜んでくれるよ」「…」
「でもエド、例のお嬢さんのゴシップの件でバリー伯爵もグランサムを離れるというなら、まあ、タイミングもよかったというわけだし、それに、ヘレナおばあちゃんが言うようにあの場所で店を開くなら、わんさか恋人たちも来てくれるんじゃないか。なぁ、ワンディ」「…」ワンディはヘレナやトニーから言われてもいろんな考えが同時に浮かんできて上手く答えれなかった。
「不安かい」エドワードは聞いた。「…はい、不安な気持ちがあります。…不安は今に始まったことではないのですが…」「いつ頃からだい」「最初は商品が売切れて興奮していましたがたくさんのお客様を見ていく中で…その、責任感というか、このままではいけないんだろうなと思っていました」エドワードはワンディの言葉を聞いて頷いた。
「ワンディ、私は君のお店を君らしく成長させなくてはいけないと思うんだ。そして、その成長はお客様の信用を得ることに繋がり、お客様は君の成長を楽しみにしてくれるファンになってくれると思うんだ。…覚えているかい。君が僕に試作品を見せてくれた日のこと。あの日の君は今、このお店の人気振りを想像できていたかい?…もう、すべてが動き出してるんだよ、ワンディ。ここからは君の覚悟が必要になるんだ…」
「ちょっとエドワード、そんな覚悟って大袈裟だよ」ヘレナは熱が入ったエドワードをなだめようとした。「エドワードおじさんっ!」しかし、その熱はワンディに移って覚悟を決めた。「僕、やります!あのコテージを今よりもっと喜んでいただけるようなそんなお店に僕がします!」ワンディはエドワードに言われて、なぜ宝石屋をはじめたのか?その理由を思い出していた。”あの女の子にどうしても会いたい”そのために町一番の宝石屋を作ると決めたんだ。
「よく言ってくれた、ワンディ」エドワードはやさしい笑顔を見せた。「よしっ!そうと決まればいろいろと準備が必要になるよ、みんな。開店の目安は今日から半年後、来年の5月から6月ごろの予定だ。ワンディにはたくさんの商品をデザインしてロンドンの工房にお願いしなくてはいけない。トニーには新しいお店の看板をはじめ、内装や装飾をたのむよ。そして母さんは今回とても評判が良かった、あのフルーツサンドを新しいお店で取り入れてもいいと思うんだ」
「僕は主に広告や宣伝を担当して、みんなのスケジュール状況をチェックする監督もさせてもらう。えらそうだが勘弁してくれよ」「ヒューッ!」トニーが口笛ひとつ拭いた。「何だか楽しくなってきたな。ここはみんなで乾杯しようぜ、エド」「そう言うと思ったよトニー」ヘレナも嬉しそうにそう言うと、家からグラスとシードルを持ってきた。「じゃあエドワード、何と言って乾杯するんだい」「そうだね。恋人たちの桟橋前に誕生する宝石屋フルージュをここに祝してチアーズ!」
もうすぐしたらクリスマス。12月半ばのここグランサムの街でもクリスマスを祝う準備で街の人たちは慌ただしくしている。通り沿いにたくさんのイルミネーションを飾る商店街の人たち。駅前の広場には大きなクリスマスツリーが運ばれ、大人と子供たちが一緒になっての装飾。街の一角では聖歌隊がクリスマスソングの練習をしている。もうどこを見渡してもクリスマスムード一色だ。
そんな街の中心地から郊外に向けて足を進めていくと静かな住宅地へと変わり、さらにその場所を通り抜けて角を曲がると冬支度を初めている木々がたくさん見えてくる。普通ならこんな場所に宝石屋があるなんて誰ひとり思わないだろう。だが、庭小屋の宝石屋フルージュはそんな場所にたしかに存在するのである。ただ今は来年の移転に向けて店は閉まったまま、このお店に訪れる人たちは入口前に掛けてある看板を目にしては残念そうに帰る姿があった。
看板にはこう書いてある”移転のお知らせ まず、今日ここへ足を運んでくれたあなたに深く感謝申し上げます。宝石屋フルージュは来年のエルダーフラワーが咲く時期に場所を移して、新しいお店になって誕生いたします。あなたに気に入ってもらえるように今、いろんな準備をしていますよ。だから、またあなたが思い出したときにフルージュを訪ねてくださいね。新しいお店であなたと笑顔で会える日を楽しみにしています。ありがとう。…詳しい場所はグランサムの……恋人たちの桟橋が見える宝石屋フルージュより”
例年であればクリスマスの日は家族で特別な食事を囲みゆっくりと過ごしていましたが今年は少し違ったイベントがありました。ただ、それを聞く機械はワンディが住んでいるヘレナの家にはありません。12月25日のもうすぐお昼の3時になる前、ヘレナが2階の部屋にいるワンディを呼びます。「ほらワンディ、もうすぐはじまるよ!」
ワンディとヘレナが向かった先はお隣のマルティネスの家でした。ほかにも近所に住む人たちが集まって、ある新品の機械をみんなで囲っています。ワンディの反対側にはリリーとマリーが見えて、小さくこっちに手を振ってる。そして機械の横に立っているのがリリーとマリーの父であり、教師のマルティネスである。「え〜、みなさん、もうそろそろ始まるかと思います。その前に少しだけ私からお話をさせてください…」
「本日、イギリス国王がはじめて、ラジオ放送を通じてクリスマス演説を行う記念すべき日でございます。私もその特別な日を身近に感じるためにこの最新の真空管ラジオを用意いたしました。残念ながらラジオの普及はまだまだ身近ではないようですのでこうやって皆様とご一緒に国王の演説に耳を傾けることにいたしました。それでは時間になりましたので皆様静かにお願いいたします…」
マルティネスはラジオ機器に耳を傾け、つまみをゆっくりと動かしていた。「ジッ…ジッ…
驚きの現代科学の一つによって、このクリスマスに私の声がラジオを通じて…」時間ぴったりにラジオ機器から聞こえてきたのはイギリス国王の声だった。「……最後に皆様お一人お一人に幸せなクリスマスをお祈りいたします。神のご加護がありますように!」演説は約3分程の短いものだったがその内容はマルティネスが目を真っ赤にして感極まっている様子を見れば一目瞭然である。
「それでは皆さん、素敵なクリスマスをお過ごしください」マルティネスからの挨拶が終わると皆、家へと帰っていった。「いい演説だったわね」ヘレナがコートを掛けながら言った。「うん…」ワンディは頷いた。「そういえばおばあちゃん、母さんから手紙はきた?」「そうだね、ソフィーからは来てないね……まあ、今年は向こうの家になじむまでいろいろと大変なんだろうよ。きっと落ち着いたらすぐにでもワンディに手紙を送ってくれるよ」
「そう、母さんも頑張ってるんだよね」ワンディは少しさみしそうに返事をした。「ワンディ、まだ料理も残っているけど食べるかい?」「ううん…」ワンディは首を振った。「新しいお店に出す作品のデザインを描かないと…全然アイデアが出なくて…」そういいながら2階に向かう階段を上りはじめた。「あんまり無理しないでおくれよ。アイデアってものはサンタや誰かが持ってきてくれるんだろうよ…」ヘレナの声が届く前にはバタンとワンディの部屋の扉が閉まる音が聞こえた。
ワンディは部屋に入ると月明かりが部屋いっぱいに届いているのを見て目を大きくした。そして窓に近づき月を見た。”そういえばおばあちゃんが今日は雪が降ると言っていたけど雲ひとつ見えないな…”そんなことを思いながら真下に見える庭小屋に目を移した。”あの庭小屋ではじまって次はもっと大きなお店になるんだな”気持ちの高ぶりを感じながら新しいデザインを考えるため机に座り、アイデアが無造作に描いてある紙を一枚取り出した。
さあ、描き始めようとペンを持ったがふと席を立ち、本棚から不思議な木のフルージュで見つけた石を手に取った。そして、月明かりが強く光っている机の角にその石を置き、その上にアイデアが描いてある紙を立てかけるように置いた。その紙とは別の真新しい紙を一枚目の前に置き、その紙に新しい作品のデザインを描き始める。…考えてはペンを走らせてを繰り返していた。……どれくらいの時間が過ぎたのだろうか、不思議な瞬間は突然起こった。
石に置いていたアイデアの紙がつっかえをなくした様にふわっと机に落ちるかと思えばそのまますべるように机の下へと落ちていった。動くはずが無い紙が突然、机の下まで落ちてワンディは驚いた。”何が起きた?…あれっ、石が無い?どこ?”状況を把握できないまま、おそるおそるワンディは紙を拾い上げた。机の角をさわりながら”石、石、落ちたのか?いや、無い…どこ”とその視線は外に見える庭小屋のそばで立っている女の子へと移った。
ドキッ…釘付けになるとはまさしくこのことだろう。いやすでにワンディはもう確信めいたものを感じて紙をほうり投げて部屋の扉を開けて飛び出した。階段と自分の足の動きがまったく合っていない、ガタタタタタタッ…階段を激しく崩れ落ちてきた。「ワンディ!どうしたんだい!」ヘレナの心配する声も、もう次、いつ合えるかわからない今の状況にワンディの耳には到底、届いていなかった。ハア…ハア…ハア…ワンディはすぐに体を起こして玄関の扉を開いて、急いで家の外へと飛び出した。
ワンディの目にははっきりと見えていた。あの不思議な木のフルージュで出会った女の子。月明かりが彼女を照らしていている。ワンディと女の子の距離は5メートル…2メートル…そして目の前にハア…ハア…ハア、ワンディは大きく息を吐きながら女の子を見つめた。「やあ、また会えたね」ワンディから声をかけた。「フフ、覚えてくれてた」女の子は笑みを浮かべた。「やっぱり…ハア、ハア…よかった」
「僕はワンディ・ウッド、君の名を聞かせてくれるかい?」時間を無駄にしたくなかった。前みたいに名前を聞く前にまたどこかに消えるなんてことがあってはならない。「もちろんよワンディ。私の名前はエマ…エマ・ストーリーよ」「エマ…ハハっ。こんなに名前を聞いて嬉しい気持ちははじめてだ。ああっ、君にいろいろ聞きたいことがある。何から…」
エマは月を見ていた。「月がきれいね。今日は何月何日なのワンディ?」ワンディは冗談だと思った。「今日はクリスマスだよ。エマ」「まぁ、クリスマス!12月25日。ロマンチックだわ」「…エマ、聞いてもいいかい?」「何?」エマは微笑んでいる。「前にあったのはシャーウッドの森の中だったけど、エマもあの木を見に来ていたの?」
「そうよ」エマは頷いた。「じゃ、あのあと見に行ったということ?」「ううん、違うわ。あの日は、すぐに帰ったわ。フルージュは前に見に行ったことがあったの」「じゃあ、エマは見つけた?果物」ワンディが聞いた。「もちろんよ」「ハハ、僕もあの日、見つけたんだ。…エマが見つけた果物は何だった?」「ワンディは?」「……じゃあ、せ〜ので一緒に」エマは頷いた。「せ〜の、…イチゴ!」「イチゴ!」
アハハッ…ふたり揃って笑った。「一緒だわ」「聞いてエマ、僕のイチゴはこ〜んなに大きかったんだ。信じられる?」「私のは普通の大きさだったわ。でも味がとても美味しくて今まで食べたことがなかったわ」「うん、本当に美味しかった。…それから、覚えてるエマ?僕の頭の上にのせていたものが風で空に飛んで…ほら、最後、君の頭の上にのっただろ。あれ、あの時、食べたイチゴのヘタだったんだ」「ヘタ?本当?」
「本当だよ。…じゃあ、エマはあの木にどんなお願いをした?」「そうね、私の願いは…ワンディの願いを聞かせてくれたら話すわ」「僕の?…いいよ。僕は3つお願いしたよ。1つ目はね、大きくなったら人を喜ばす仕事がしたいなって。2つ目は母さんが幸せになってほしい。最後は『みんなが笑顔になってほしい』ってお願いしたんだ」「まあ、3つも…よくばりね。それで願いは叶ったの?」
「うん、順調に叶ってるよ。…僕、宝石屋をはじめたんだ。もしかして、君は知っていたのかい?」「そうね、何でも有名な女優さんが身に着けた人気の宝石屋がグランサムにあるって聞いたわ。だから、ここへ来てみたの」「本当っ!君が僕のお店のことを知ってくれていたなんて…何か夢みたいだ」「それじゃ、全部の願いが叶ったんだ」「全部?、う〜ん。1つ目と2つ目は叶ったという実感があるんだけど、3つ目の『みんなが笑顔になってほしい』はもっともっとたくさんの人が笑顔になるような…そんなイメージをしているんだけど」
「そう、じゃあ、あなたのお店がもっと大きくなったり、いろんな場所にお店ができればその願いは叶うんじゃないかしら」「うん、そうだね、君の言う通りだ。…実は今度、新しい場所で今よりも大きなお店を出すことが決まってるんだ」「まあ!」「エマ、『恋人たちの桟橋』は知っている?」「知らないわ」「そうなんだ。…君はどこに住んでいるの?」「ストーク・オン・トレントよ」「そんなに遠くから来てくれたんだ。…その『恋人たちの桟橋』はここ、グランサムで最も恋人たちから人気の場所なんだけど…今日みたいに月がきれいで…エマ、まだ時間は大丈夫?もしよかったら、今からその場所、行ってみない?」
エマは自分の手や足を見ながら少し考えて「いいわね、どんな場所かとても気になる。行ってみましょう」「そう!…じゃあ、一緒に持っていきたいものがあるから。ここで少し待ってて」そう言って、ワンディは家に向かった。家に入る前に振り返ってエマを見た。ワンディは会いたかった人にようやく会えた喜びに浸っていた。
「ワンディ、あの子は誰だい?どこかのお嬢さんみたいだけど」ヘレナもずっと、ワンディの様子が気になっていた。「ごめん、おばあちゃん。帰ったらゆっくり話すね。今から、あの子と『恋人たちの桟橋』に行ってくる」ワンディは2階の部屋に戻ると鞄のなかに思いつくまま入れてから降りてきた。「じゃあ、おばあちゃん行ってくる」
「ごめん、待たせて。行こうか」「うんっ」ふたりは雲ひとつなく澄み切った空に広がる満点の星空を眺めながら、歩いて行った。歩きながらもたわいもしない話でふたりは盛り上がっていた。ワンディははじめて話をするエマにこんなにも自分から話ができるんだと自分に驚いていた。でもそれはきっと、あの子…いやエマがとても魅力的だからこそだと思っていた。
「もう、そろそろかしら?」エマが聞いた。「うん、もうすぐ。…じゃあ、エマ、ここから目をつぶってくれるかい?」「目をつぶる?」「僕がその桟橋に着くまで手をつないで連れていくから、いいよと言うまで目を開けたらだめだよ」「フフっ、わかったわ」エマは笑みを浮かべて目をつぶった。ワンディはエマの手をとった。「じゃあ、いくよ」「うん」ふたりは手をつないだまま、数分間歩いた。「まだ?」エマは足元が土の上から、木の上を歩いていることを感じた。「着いたよ。…目を開けていいよ」
エマは恐る恐る目を開いた。「あぁっ」思わず手で口を覆った。「とても、きれい」エマは桟橋の先端に立っていた。目の前に広がるウィザム川に月の輝きが美しく反射してエマの足元まで光が届いていた。「ここが『恋人たちの桟橋』だよ。エマ」「素敵な場所ね。風が気持ちがいい」「こっちを見て」エマは振り向いた。「あそこに見えるコテージが今度、新しいお店になるんだ」「楽しみね。ワンディがつくるお店」「うん、僕も楽しみにしてる」
「じゃあ、エマ、ここへ座って」ワンディとエマは足を垂らして、桟橋に座った。「実はエマに渡したいものがある」「何かしら?」ワンディは鞄の中から小箱をひとつ、エマに渡した。「開けてみて」「うん」エマは箱を開けて、ネックレスを取り出した。「いつ会えるかわからないけど、ひとつだけ君のために取って置いたんだ」「あまり、見ないかたちのネックレスね」「気に入らない?」「ううん、そうじゃないわ…着けてもいい?」
ワンディはエマの後ろへまわり、ネックレスを首にかけ着けてあげた。「どうかしら?」「とても似合ってる」「ありがとう。大事にするわ」エマはペンダントを大事そうに握った。「あっ、そういえば、僕の願いは話したけどエマの願いは何か聞いてなかった」「私の願いは……内緒」「言えないこと?」「ううん、そうではないけど今はまだ…」「エマはその願いは叶いそうなの?」「そうね、順調よ…ワンディと一緒」
「そうだ、これ、見てくれるかい?」ワンディは紙を取り出した。「あのコテージに並べる新しい作品を、今、いろいろと考えてるんだけど、君の意見を聞きたいんだ」エマは紙を手に取ると見づらいようで月を背中にした。「う〜ん」「あんまり良くない?」「そうじゃないんだけど……私なら、どんなデザインにするか想像してたの」「もしかして、君、描けるの?」「ええ、まあ、少しくらいなら…」「本当!…じゃあ」
「こっちの紙に描いてみて」ワンディはエマに新しい紙とペンを渡した。「ワンディのお店は果物をモチーフにしてるでしょ?…だったら…」エマはためらいもなく思いつくまま、いろんなデザインを紙に描いていった。横で見ていたワンディは驚いた。何かひとつでも渡した紙に描いてくれたらと思っていたのだが、気づけば紙いっぱいにたくさんのデザインをこの短い時間で描いてくれた。
「エマ、君、すごいね。…うん。…どれを見ても、素敵だ」「そう、うれしいわ…」「これ!つかってもいい?…もちろん、エマの作品だから、名前にはエマって入れなくちゃね」「私はかまわないけど」「うん。…本当にいい」ワンディは紙を眺めては何度も頷いた。「…才能があるんだね。エマ」「そんなことないわ、小さい時からお母様に教えてもらってたの」「お母さんに?」
「うん、お母様はこういったデザインを描く仕事をしてるの。ワンディと同じ果物が大好きよ…一緒にたくさん描いていたから、だから少しくらいなら私でも描ける…でも、実はそのお母様とは、今、仲が悪いの」「どうしたの?」「家を出てくるときに喧嘩してしまって…飛び出してきちゃった」「お母さんはエマがここに来ているの知らないの?」「うん」「もしかして、一人でここに?」「ううん、近くにトムを待たせてるわ」「トム?」「運転手よ…トムにここまで連れてきてもらったの」
「そうなんだ。でも、エマ、お母さん、君のこと心配しているだろ?」「そうね、たぶん心配してるわ」「じゃあ、すぐにでも帰ってあげなくちゃ…帰ろ」ワンディは立ち上がり、エマの手を取った。ふたりが桟橋を離れるころ、2組の恋人たちとすれ違った。帰り道は雲一つなかった星空も気がつけば、雪雲で覆われていた。「ねえエマ」ワンディは後ろを向いて声をかけた。「新しいお店が出来たら、来てくれるかい?」
「うん」「本当、うれしい!約束してくれる」「もちろん、約束するわ」ワンディはエマとまた会える約束ができたことに大きく浮かれた。そして、ふたりは家の前へ戻ってきた。「ワンディ、ここでいいわ」「もう少し、送っていくよ」「大丈夫よ」「そお…じゃあ、エマ、お母さんと仲直りするんだよ」「わかった。…じゃあね、ワンディ…また」エマはそう言って駅の方へ歩いて行った。
ワンディはその様子をずっと見ていた。角を曲がるときエマは立ち止まり振り返って手を振った。応えるようにワンディも手を振った。そして、エマの姿が見えなくなり、さみしい気持ちが込み上げてきた。”まあ、また会えるんだし”と考えた瞬間にハっと気づいたことがあった。”いつ、新しいお店ができるということ、話していなかった”ワンディはすぐに走りだした。
エマはあの角曲がってそう遠くは行っていないはず、すぐに追いつけるはずさ。そう思いながら角を曲がった。しかし、静かな道にはエマの姿はもちろん誰ひとり見ることはなかった。ワンディは最初に出会った時と同じような感じがした。急にいなくなったような…。ほっぺに冷たいものを感じた。”あっ、雪?”そう思って見上げると、たくさんの雪が空から落ちてきた。”そうか、今日は雪が降るっておばあちゃん言っていたな”
© 2022–2026 Tadahiko Sakai. All Rights Reserved.Story and characters: Fruje
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